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横浜地方裁判所川崎支部 昭和52年(わ)51号 判決

被告人 細矢孝太郎

大正一三・九・一一生 無職

主文

1  被告人を懲役二年六月に処する。

2  未決勾留日数中二〇〇日を右刑に算入する。

3  この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和三九年に妻喜代子(大正一三年生)と結婚し、同五一年八月ころから肩書住居に住み、機械仕上工として働いていたものであるが、喜代子が同年夏ころから「部屋に感度器が仕掛けられている。」旨言うなど被害妄想の症状を呈するようになつたため、姉の芹沢セイ夫婦や喜代子の兄の高橋弘らとも相談のうえ同年九月一〇日に川崎市内の武田病院精神科に喜代子を入院させたものの、同女が病院を嫌がつて帰宅を望むことから同年一〇月一五日に完治しないまま退院させ自宅に連れ帰つたが、依然妄想がとれず「映写機で写される。」などと口走る同女と過ごすうち被告人自身の気持も不安定な状態となつて仕事に身が入らなくなり同年一二月二五日付で退職してしまい、翌五二年一月一四日に右状態をみかねた前記芹沢夫婦や高橋から喜代子を再び入院させるよう勧められた際も、同女が入院を強く拒むばかりか、入院させるなら離婚する旨言うので、離婚する気の全くなかつた被告人は同女が可哀想だと思う気持も手伝つて入院に反対したものの、その後は退職後の就職先も見つからないことからくる老後の不安も重なつて思い悩んでいたところ、同年一月二二日午前四時ころ前記居室で目覚めて、眠れないまま台所からトリスエキストラウイスキー一、八〇〇CC入りの瓶(昭和五二年押第六七号の1)を持ち出してウイスキーコツプに半分位を二杯飲み、足指の爪を切ろうと台所の机抽き出しから裁ち鋏(同号の2)を持ち出したりした後暫くまどろみ、同日午前六時三〇分ころ再び目覚めて隣に床をとつていた喜代子と話しているうち、思い余つていつそ同女を殺害して自殺しようと決意し、同日午前七時三〇分ころ前記ウイスキー瓶を右手に握りこれで同女の左前額部を一回殴打し、更に前記裁ち鋏の真中を右手に持ち刃先の部分で同女の咽喉部から右頬にかけて十数回突き刺し、電気炊飯器用の電気コード(同号の3)で同女の頸部を絞めつけたが、同女の出血を見て驚愕するとともに、憐憫の情を抱き自ら中止したため、同女に対し加療約二週間(入院六日間)を要する左前額部挫創、右頬・右耳・咽喉部刺創の傷害を負わせたに止まり、殺害の目的を遂げなかつたが、右犯行後の同日午前七時五〇分ころ神奈川県川崎警察署司法警察員に右の旨自首したものである。

(証拠の標目)(略)

(殺人未遂罪を認定した理由)

弁護人は、被告人が本件犯行当時殺意がなかつたから傷害罪であると主張し、被告人も当公判廷において、これに沿うかの如き供述をしているが、判示のとおり、被告人が妻の被害妄想と離婚問題、就職先が見つからないことによる不安等が重なつて思い悩み、妻を殺害して自己も自殺しようと決意したと認められるのであつて、殺害行為の方法、回数、凶器の種類もこれを裏付け、被告人の捜査段階での供述も信用できることから被告人に犯行当時殺意があつたことは明らかであり、ウイスキー瓶での殴打や、裁ち鋏で突き刺す行為、電気コードで頸部を絞める行為のいずれもが必ずしも充分力が入つていなかつたことは、被告人の愛する妻に対する殺害行為が憐憫の情との葛藤の中でためらいながら行なわれたことを示していると認めるべきであつて、殺意を認定する妨げとなるものではない。

また、弁護人は右各殺害行為は強く行なわれていないので定型的な殺害行為ではないから不能犯であると主張しているところ、相当程度の重量あるウイスキー瓶で前額部を殴打する行為や、先端が何ミリメートルか欠けているとはいえ裁ち鋏で咽喉部を突き刺す行為、電気コードで頸部を絞める行為は力の程度が弱くてもいずれも殺人の定型的な行為に該当することは明らかであり、右三種類の殺害方法が合計何度か行なわれていること、被害者の傷害の程度、出血状態等に照らし、殺人の実行行為の着手があつたと認定するに疑問の余地はない。

(中止未遂を認定した理由)

検察官は、被告人が殺害を中止したのは被害者の顔面、頸部等から多量の出血があり、これに驚愕したことによるもので本件は障害未遂であると主張しているところ、前掲各証拠によれば、確に被害者にかなりの量の出血があり被告人がこれに驚愕したことも認められるが、本件犯行は妻を殺さずんば已まずの客観的事情下で強固な殺意に導かれて為されたものとは認めえず、前叙のように失意、愛する妻に対する憐憫の情等の心理的葛藤の中でためらいながら行なわれたものであることは、ウイスキー瓶が割れず、被害者は脳震盪も起こさず、その皮膚の創傷は浅く、頸部に索痕を存していないことから容易に窺われ、途中で被害者がむしろ殺害されることを望むような言動に出、被告人の攻撃に対しても無抵抗で、客観的には殺害可能な状態にあつたのに、妻をいとおしむ気が先立ち急所を刺撃しえず、傷害の程度の物語る如く、決定的な殺害行為には及ばないうち、出血状態を見て驚愕するとともに強い憐憫の情によつて妻の生命を奪い去ることを欲せず、その遂行を思い止まつたと認められるものである(被告人の司法警察員に対する昭和五二年一月二二日付、同月二五日付各供述調書がこの間の被告人の心情をよく表現している。)。

ところで「自己ノ意思ニ因リ之ヲ止メタルトキ」にいう「自己ノ意思ニ因リ」とは、外部的障害原因の存しないのに拘らず内部的原因に由る場合、すなわち外部的事情が犯罪を完成するについて障害として認識されていなかつた場合と解するのが多数の判例の見解ではあるが、犯罪の実行に着手したが、高度の情操を働かせてこれを止めるような者は、外部的障害(例えば流血)を認識するのは通常であり、かつこれに驚愕する情を懐くのも亦通常であつて、かかる場合すべて任意の意思を否定するのは妥当ではなく、通常人があえてなしうるのに、行為者はなすことを欲しないという意思の認められる場合は、その意思が外部的障害を契機として生じたにせよ「自己ノ意思」あるものと解するのを相当とする。

そうすると、前叙のような傷害、出血の程度、被害者が受傷後自ら消毒をしたり電話に出ることができた状況等に照らすと、本件は実行行為の終了前にその実行を放棄した着手中止の色彩が強いばかりか、被告人が自家治療行為に出なかつたとはいえ、結果の悪化を防止するためその後直ちに救急車を呼んだことから結果防止に真摯な努力をしなかつたとはいえず、その結果被害者は確実に死を免れたのであつて、その面では実行中止の要素もあり、結局のところ本件は外部的障害の存在は否定されないけれどもそれのみによつて未遂に終つたとはいえず、むしろ積極的な自己の意思により殺害を中止したと認めて差支えのない事案である。

(法令の適用)

被告人の判示所為は、刑法二〇三条、一九九条に該当するので、所定刑中有期懲役刑を選択し、右は中止未遂で自首にかかるものであるから同法四三条但書、四二条一項、六八条三号により一回法律上の減軽をした刑期の範囲内で被告人を主文第一項の刑に処し、未決勾留日数の右刑算入につき同法二一条を、刑の執行猶予につき同法二五条一項を、訴訟費用を被告人に負担させない点につき刑事訴訟法一八一条一項但書を各適用する。

(量刑事情)

本件は、妻の被害妄想と離婚問題、自己の就職問題等による将来の不安が重なつたとはいえ、妻の殺害を決意し、無抵抗な妻に何回も執拗に攻撃を加えた陰惨な事案であり、自己も自殺する気持であつたにしても甚だしい人命軽視の犯行であり、冷静に考えれば妻を入院させて治療することが最良の方法であつて、入院は親族らの協力もあり特に困難な状況ではなかつたもので、被告人が当時考えていた程追い詰められた状況にはなかつたことも考慮すると、被告人の思慮に欠ける軽卒な犯行は強く非難されなければならない。

しかしながら他面、判示のように被告人の各行為はさ程強い力を入れたものではなく、これも妻に対する愛情と被告人の善良な性格のあらわれと認められること、被告人自らが犯行を中止し救急車を呼んだこともあつて幸いにも未遂に終わり、現在では妻も全快して被告人を宥恕していること、被告人は犯行後直ちに警察に出頭して自首し、当公判廷においても供述に一部曖昧な部分はあるが改悛の情は変わらないと思われること、被告人はこれまで前科前歴が全くなく勤労者として平穏に暮してきたもので、今後は姉夫婦の以前にも増した援助が期待できること等酌量すべき事情が多々存する。

そこで当裁判所は、如上被告人に有利不利一切の諸事情を参酌し、判示犯行にも拘らず刑の執行を猶予するのを相当とする事案と認める。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 櫛淵理 千葉庸子 仲戸川隆人)

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